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2006年04月20日 Archive

小学校時代 その4


かなり間、間をおいてしまったのだが、ひさしぶりに海外生活:小学校編の続きである。
http://blogs.yahoo.co.jp/bonzofire/1597835.html

英語がまったく解らないお笑い小学校生活の続きである。


「My Hero」というあだ名がすっかり全校に行き渡ってしまったわけだが、そのあだ名は、ある事が重なり、ますます強固に僕の元から離れなくなってしまった。


それは休みの時間から始まった。
美国の小学校にも休憩時間はあるのだが、ここは荒外州で、ぼくが学校に通い始めたのは1月から:すなわち外は真冬である。 錨町(州の中では暖かい町とされる)でも、1月の日中平均はマイナス5度くらいかな。 で、こんな日に何をするのかというと、やはり多くの男子は外に行って遊ぶのである。 ただ、雪の中なので、ボール投げとかはできないので、何をするのかというと、車の駐車上などの雪かきで作られたと思われる雪の山をめぐり、だれがその山の頂上部分をとるかみたいな、陣取り合戦をするのである。

この陣取り合戦で、僕は連日凄い活躍をしたのである。 そもそもこの陣取り合戦とは、同じ組の男子がそのままチームとなり、相手の組の男子を、押し合い、へし合いしつつ雪山の頂上部分を奪取、もしくは守るのだ。 僕が活躍したというのは、常に自分の組が頂上部分を占拠できるような活躍をしたからだ。

なぜそんな活躍ができたかというと、
他のクラスの男子をつぎつぎと、足掛けで倒していったからだ。
というのも、みんな、取っ組み合いにはなるんだけれど、その後は、押したり引いたりしてるだけで、なかなか前に進まない。
僕はここに、足を掛けて相手を倒してしまう、という技を持ち込んだのだ。

日本だったら、ガキの頃から相撲ごっこや、柔道ごっこで、だれでも当たり前にわかっていることなんだけれど、
ここは、荒外州、かつ小学校6年の子供である。
カラテは知ってても、誰も柔道なんてその頃は知らないし、SUMOも写真でしか見たことのない世界。

日本人にこんな話しても信じられないかもしれないけれど、
足を掛けられて倒されてしまうというのは、ここ子供たちは、その時まで、だれも経験したことがなかったのだ。
みんな、「My Hero」につかまれると、何が起こってるのかもほとんどわからないまま、気が付くと、倒されてしまう。
そんな感じだった。

この雪山山頂争奪戦の活躍を一部女子とかが見てたりして、ますます「My Hero」に磨きがかかっていった。


だけど、それだけではない。


体育の時間だ。


この学校での体育の時間は、ほとんど「遊び」の延長以外、なにものでもなかった。
(正確に言えば、小学校全部の時間がほとんど「遊び」の延長みたいなものだったんだけれど、、)

運動着に着替えるわけでもなく、外は真冬である。
で、何をするかというと、ほとんど先生の気まぐれで、講堂でゲームをするのだ。

バレーボール、キックボール、サッカー、ドッジボールなどなど。

日本の体育みたいに跳び箱もなければ、鉄棒も器械体操もない。(よって成績もなかった)
(自慢じゃないが、あまりにもの私の運動音痴のせいで、僕は日本の小学校5、6年くらいのときに、体育の成績が一番ビリだったことがある。余談だけれど、確かに運動音痴だったのは認めるけれど、だからといって、5年、6年のガキに「お前はクラスのビリだ」というのも、凄い先生だと思うけれどね。)

とにかく、僕は体育の時間でも「My Hero」ぶりを発揮した。
ドッジボールなんて、手加減しないと、誰かを怪我させてしまう、、、ぐらいの体力の差があった。

結果はどんなゲームでも、自分のチームに入れようと引っ張りダコなのである。
僕自身、自分の存在がこんなに高く評価されたのは、それまでの人生、その後の人生含めてその時だけである。
というか、あれから30年たった今でも、あのときの嬉しさというか、
「俺は美国に来てよかった!これからはバラ色の人生が始まる」って感じたことをよく覚えている。


やがて雪がとけ、体育(ゲーム)の時間も、講堂から外になった。

ベースボールやソフトボールでもそうだった。
「My Hero」の快進撃は止まらない。

また卒業前(5月)には、運動会もどきがあった。 
運動会といっても、両親がくるのではなく、先生と生徒だけの運動会なんだけれどね。

競技は自由参加で一人最低何種目に参加しなければいけないという縛りはあるんだけれど、参加種目の上限には縛りがなかった。
僕は、走りの競争(違う距離で3、4回)や、遠投に参加したんだけれど、確か、全部一位になった。
(マジでうそじゃない。本当の話なんだから、、、)


僕自身「僕は美国に来て、生まれ変わったのだ」みたいなことも、ちょっと錯覚しはじめた。




だけど、日本では、(たとえクラス1のビリではなくとも)かなりの運動音痴だった人間が、
ここまで活躍できたのには、理由がある。


理由は、

僕がもともと美国の小学生(6年)比べて、平均して一つ年上だったことで、体格上の差があった。

しかし、それにも増して、ここの生徒はひ弱だった。

というのも、きっと、冬が長いせいか、彼らの体力は日本の同学年に比べると2,3年くらい劣っていたと思う。
ようは、日本の小学校3、4年生の運動能力=ここの学校の小学校6年生の運動能力くらいしかなかったと思う。





「ぼくが、美国に来て生まれ変わった」という錯覚は、その後ゆるやかに崩されて行き、
特に中学2年のときに荒外州から健滝州に引っ越したときには、
僕はすでに「My Hero」ではなく、
体育の時間では「No Hero」と、もっと本当の名前に近い存在に成り下がってしまうことになる。

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