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2007年10月09日 Archive

「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢつと手を見る」


「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢつと手を見る」



と語ったのは石川啄木先生であります。


といっても、ほとんど文学的な教養のない僕は、一体この詩がどのような時代背景に書かれたものなのかさっぱりわかっていません。
(それだったら、インターネットでも調べればいいんですがね。。)


だけど、これって1、2年前に書かれたことじゃなくんて、?十年前のことですよね?



あれ?



今も格差の問題とか云々とかで、この詩をマスコミで聞くことが多いのですが、
では、振り返ってみて、一体何時の頃が「楽」だったのだろうかって考えてみました。


みなさん、それぞれだと思うのですが、僕は、ガキの頃、親元で暮らしてた頃ですかね。。
ようは、生活に対して何の責任もなく、親に全てを頼ってた頃が、一番面白おかしく、「楽」だったころです。



もちろん、その頃、僕の両親は、オイルショックとか、円高とか、それなりに、いかに僕等にメシを食わせねばと、、、

「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢつと手を見る」なんて言ってたのではないかなって思ったりしてます。



しかし、何故にこれだけ経済が成長して、生活が豊かになっているはずなのに、まだ、世間では、

「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢつと手を見る」

って言われるのでしょうか?(僕の場合、少なくとも、その頃から30年、、)



僕等は、一体、どこまで働ければ「楽」になれるのでしょう。



これをちょっと考えれば、一つの定義が考えられます。

生活が10、20年前に比べると(少なくとも物質的には)豊かになっているは絶対だと思います。  



しかし、多くの人が気づいていないのは、

生活が豊かになる =  楽になる  ではないってことなんじゃないかなってことです。



ようは、(当たり前のことなんですが)より生活を(物質的に)豊かにするためには、 = より今以上に働かなければいけないってことです。




ってことは、

少なくとも、物質的に豊かになるって願望さえすてれば、「楽」になることも「夢」ではないんじゃないかなって。




僕が小学生低学年だった頃、外食なんて、よっぽど特別なことでもなければ行けなかった記憶があります。

そして、我が家の生活が「豊か」になったせいか、高学年になった頃は、月に一度、家族で外食をするようになりました。 

家族揃っての旅行なんて、家が商売してたこともあり、ほとんどない。何年に一度の世界。

両親なんて、自営だったんで、週休二日とかどころか、夏休みも冬休みもなかった。

クーラーなんてまだ超贅沢品、冬はコタツに石油ストーブ。火鉢や湯たんぽもまだつかってた。

もちろん、テレビゲームもなければ、IPODもない。

運動会の頃のビデオもなければ、写真すらない。






だからといって、なんか不満があるかというと、特に何にも無い。 

先述したように、ガキであった僕だけでいうと、あの頃が一番楽しかった。(両親はそうでなかっただろうが、、)




しかし、いまどき、そんな生活をしてたりすると、、、きっと超貧乏者として笑いもの対象になっちゃうんでしょうね。




だけど「豊かさ」の定義が、いかにブランド物の洋服を増やすか、海外旅行で訪れた国の数、一月に何度外食をしたか、何年に一度新車に乗り換えられるか、


ここの定義が変わらない限り、きっと、いくら働いても、永遠に「楽」になることなんてないでしょう。

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